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誰のためのデザイン?

 岸(2018)は、沖縄の公立図書館で、職員が私物の電気ストーブを貸してくれたエピソードを紹介する。それにつづく部分。

「私たちはなかなか、お互いに親切にすることができない。なぜかというと、親切にするということは、ほとんど必ず、なにかの小さな規則に違反してしまうからだ。・・・中略・・・/私は、良い社会というものは、他人どうしがお互いに親切にしあうことができるような社会だと思う。そしてそのためには、私たちはどんどん、身の回りに張り巡らされた小さな規則の網の目を破る必要がある。/私たちは、規則を破らないと、他人に親切にできない。だから、無意味な規則というものは、できるだけ破ったほうがよい、ということになる。そして、そういう「規則を破ることができるひと」が、沖縄にはたくさんいる。/こういう感覚を、「自治の感覚」と呼びたい。自分たちのことは、自分たちで決める、という感覚。自分で決めで、自分のルールで、他人に優しくすることができる人びと。」(岸,2018,pp.69-70)

 岸は、全体をとおして、さまざまな留保をつけながら丁寧に記述している。上記の部分も、そうした配慮のもとになされた記述であり、一部を引用すると誤解をさせてしまうかもしれない。ぜひ原典にあたってください。

 

 つぎは、なだ いなだ(1974)から。ストーリーは2名の対話で展開する。その一部分。

「―たとえば、交通規則だ。これは、まったく合理的なとりきめだ。バツがこわいから、赤信号を無視しないわけじゃない。事故がこわいからだ。罰を警察から受ける前に、事故によって罰せられてしまうことの方が多いのさ。だから、昼間の交通の多い時には、規則はわずらわしくない。しかし、夜遅くなり、車が全くなくなっているのに、赤信号のところで立って待っている時、ぼくたちは、いらだたしくなる。

―ええ。巡査がいなけりゃ、わたっちまうでしょう。

―つまり、その規則が、ぼくたちをまもるためには無縁のものになり、ただ規則の権威をまもるためだけ、それに無理に従わされることになった時、ぼくたちは理を感じない。強制を感じる。そこが問題なのさ。」

(なだ いなだ,1974,p.178)

 

2つの引用をとおして考えたいのは、いったい私たちはどうしたらよいのか、ということです。

タイトルはノーマンの著作からですが、リ・デザインするとよいことはたくさんあります。

 

岸政彦 2018 はじめての沖縄,新曜社

なだいなだ 1974 権威と権力(岩波新書),岩波書店

小さく生んで大きく育てる

承認してほしいのに、承認してもらえない不満からくる不全感という問題系。

→ 承認欲求を充たせるような「手段」を獲得することのむずかしさ

 

●ポジティヴな手段の獲得について(積極的自由と関連)

・他者が必要とするような役割を担ったり、他者の活動を充実させる支援ができる(=自らが他者のために何かをできる)のであれば、承認の獲得につながる

・ところが、こうした行為をできるようになるためには、一定の「負担」を負ったり、「苦しさ」を味わうことが求められる。

・・苦労せずに、誰にでもできることなのであれば、そもそも、それらの行為を行うことにより、承認を得ることにならないため。

・しかし、その「負荷」「苦しさ」に耐えることができない。

・でも、承認はしてほしい、という。どうするか。(ネガティヴな手段へ流れる)

 

●ネガティヴな手段の獲得について(消極的自由と関連)

・自分のことを無前提に承認してくれる/気にかけてくれる人(たとえば家族)がしてくれる提案にノーという

・・提案者は、そのノーに応じて、提案を修正してくれる

・自らの意思が通る、という「成功体験」。自分への(微かな)配慮にすがることに。

=他者の配慮にノーということでさらに配慮してもらう、という「手段」の獲得

・配慮は承認の十分な獲得にはならないため、膨大な配慮を求めることにも

 

●承認を得るための負担/必要なスキル

・自らが他者のために何かをすること > 他者の配慮・提案にノーということ

 

●この問題系においてどのような対応策がありうるか。

・おとなになれば、自動的に、他者の役にたつ何かができるようになるわけではない。できるためには、多くのスキルが必要で、大きな負荷に耐えられる力が必要。

・小さな頃には、他者の役にたつ(自分が何かをすることで周囲に喜んでもらえる)ことは、相対的に、小さな負荷/必要なスキルはすくなくて済む

 

・承認を調達できるようになる、という学習 → チャレンジする環境づくり、失敗を許容する環境づくり

 

理念型と価値自由

質的研究にはいくつかの立場がある、という話を踏まえて、そのひとつの立場と関連するマックス・ヴェーバーの「価値自由」に関する説明を、山之内(1997)から引用します。

「しばしば誤解されてきたことですが、ヴェーバーの言う「価値自由」とは、社会科学にたずさわる人間は一切の価値判断にとらわれてはならず、ただひたすら客観的事実を追求すべきだ、といったものではまったくありません。そのような純粋客観主義は、むしろヴェーバーが排撃してやまないものでした。彼が論じたのは、社会科学のいかなる命題も、根本的には何らかの価値判断を前提とせざるを得ないということ、そしてこの点をはっきり自覚している必要があるということでした。純粋に客観的な立場などというものは、およそ歴史や文化をその研究対象のうちに含む社会科学においては存在しえない。というのも、社会科学の営み自身が、特定の歴史的状況の内部におかれているからであり、特定の文化的時代環境の要請に対応するものだからである。―ヴェーバーの言う「価値自由」とは、だから、何よりもまず、社会科学の研究にたずさわる者は、自分の研究をなすにあたって、その研究がいかなる価値判断を前提とするものであるかについて明らかにしておく必要があるということ、この点にかかわっていたのです。」(山之内,1997,pp.2-3)

 

実際のところ、オンラインで気づきを得るのは簡単ではないように思います。フィールドを離れて、それなりにまとめたあとで気づく、ということも少なくありません。また、そのことがつぎの研究のきっかけになったりもします。

ともあれ、ヴェーバーは上記の前提を踏まえて、(質的研究にかぎらず)社会科学が何をすべきか(理念型の話です)を提示している、という点に注意する必要があります。

 

山之内靖 1997 マックス・ヴェーバー入門(岩波新書),岩波書店

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