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アートとまちづくり

●アートとまちづくりの関連(田所,Ch4,pp.86-87)

・1970年代:公共建築や公共空間に芸術作品を設置する試み(パブリックアート)が本格化

・1980年代から1990年代はじめ:全国に美術館が建設。バブル期のハコモノ行政 → バブル崩壊・財政難(p.162)

・1990年代:パブリックアートが都市開発の目玉事業に

(例.ファーレ立川;109作品を配置)

→アーティストは作品の制作にかかわる

 

・2000年代:アーティストは、創造的な価値を生み出すために、より積極的に街に関わることを期待される

・・既存の空間をアーティストの政策空間に転換するプロジェクトが全国に広がる(例.香林坊ハーバー)

 

・アーティスト・イン・レジデンス:自治体などの公的機関がアーティストに制作場所や居住施設を一定期間与えて、政策活動を支援する仕組み(例.神山町;後述)

・アートイベント:定期的に開催されるアートイベント。芸術活動をきっかけに地域の活性化を図る(例.横浜トリエンナーレ越後妻有アートトリエンナーレ)。

 

●アーティスト・イン・レジデンス(田所,2016,Ch7)

・もとは、アーティスト支援の制度。

・地域振興が期待されるような社会的背景(p.162)

・2016年には60件以上の取り組み(p.87)

 

徳島県神山町の神山アーティスト・イン・レジデンス(KAIR)(田所,2016,Ch7)

・国内外のアーティストを招聘し、約3ヶ月間の滞在期間中に作品を制作してもらう。

・・無料提供:宿泊施設、アトリエ

・・支給:交通費、生活費、材料費(pp.157-158)

・・サポート役:材料の調達などを支援する役割。生活の支援をする役割。(p.163)

・制作された作品は神山町に寄贈される(pp.157-158)

・ねらい(p.163):

・・× アーティストの有名性や作品価値に依存した短期的な地域振興

・・○ アーティストの人的ネットワークによる長期的な波及効果

 

文献

田所承己 2017 場所でつながる/場所とつながる,弘文堂.

 

体系の精神、体系の人(Smith,1759)

アダム・スミスの体系の精神、体系の人について

 

われわれが「秩序」を好むことが語られる。

体系への愛好の一部から引用。

「統治のあらゆる構造は、それらが、それらのもとで生活する人びとの幸福を促進する傾向をもつのに比例してのみ、評価される。このことが、それらのものの唯一の用途であり、目的である。しかしながら、一定の体系の精神から、技術と工夫への一定の愛好から、われわれはときどき、手段を目的よりも高く評価するように思われるし、われわれの同胞被造物の幸福を、かれらが受難あるいは享受しているものごとについての、なにか直接の感覚または感情からよりも、むしろ、一定の美しく秩序ある体系を完成し改良したいという観点から、熱心に促進しようとするように思われる。(pp.26-27)」

 

人間愛と仁愛によって公共精神が促進されている人について:

「その公共精神がまったく人間愛と仁愛によって促進されている人は、既成の諸権力と諸特権を、個々人のものであっても尊重するだろうし国家が分割されている大きな諸階層と諸社会のものであれば、なおさらだろう。・・・かれが人民のなかに根づいている諸偏見を、理性と説得にって征服しえないときは、かれはそれらを力ずくで屈服させようとはこころみない・・・かれは、かれの公共的な諸調整を、できるかぎり、人民の確認された諸慣行と諸偏見に順応させるだろうし、人民が服従したがらない諸規則の欠如から生じうる諸不便を、できるかぎり匡正するだろう。かれは・・・最善の法体系を樹立しえないばあいには、人民が耐えうるかぎりで最善のものを、樹立しようと努力するだろう。」(pp.143-144)

 

一方、体系の人について:

「体系の人は、反対に、自分ではひじょうに賢明なつもりになりがちであり、かれは、自分の理想的な統治計画の、想像上の美しさに魅惑されるため、それのどの部分からの最小の偏差も我慢できないことがしばしばである。かれは、それに反対するだろう大きな利害関係にも強い偏見にも、なんの顧慮もなく、それを完全にしかもそのあらゆる部分について樹立することをつづける。かれは、手がチェス盤のうえのさまざまな駒を配置するのとおなじく容易に、自分がひとつの大きな社会のさまざまな成員を配置できると想像しているように思われる。かれは、チェス盤のうえの駒が、手がそれらにおしつけるもののほかにはなんの運動原理ももたないこと、そして人間社会という大きなチェス盤のなかでは、すべての単一の駒が、立法府がそれにおしつけたいと思うかもしれないものとまったくちがった、それ自身の運動原理をもつということを、まったく考慮しないのである。もしそれらのふたつの原理が、一致し、おなじ方向にはたらくならば、人間社会の競技は、容易に調和的に進行するだろうし、幸福で成功したものである可能性が強いのである。もしそれらが、対立または相違するならば、競技はみじめに進行するであろうし、社会はつねに、最高度の無秩序のなかにあるにちがいない。」(pp.144-145)

 

ただし、上記のとおり、方向性をもたなくてよいわけではない。

「政策と法律の完成についての、ある一般的な、そして体系的でさえある観念が、政治家の諸見解を方向づけるために、疑いなく必要であるだろう。しかし、その観念が要求すると思われうるあらゆるものごとを樹立すること、しかもすべてを一時にあらゆる反対にもかかわらず樹立することを主張するのは、しばしば最高度の傲慢であるにちがいない。それは、かれ自身の判断を、正邪の最高規準としてうちたてることえある。それは、かれ自身が、その公共社会のなかで唯一の賢明で価値ある人間であって、かれの同胞市民たちはかれに順応すべきで、かれがかれらにそうすべきなのではないと、空想することである。・・・この傲慢は、かれらにとっては完全におなじみのものである。かれらは、自分たちの判断のかぎりない至上性について、なんの疑いもいだかない。」(pp.145-146)

 

スミス,A.2003 道徳感情論(下),岩波書店.(岩波文庫

生来のものと思われがちだけれど

ケニア人の長距離選手の話(シェンク,2012)

 

ケニア人のトップ選手の九〇パーセントはケニア西部のグレートリフトバレー地区に居住するカレンジン族の出身である。」(p.126)

「一流アスリートのあいだで飛び交うジョークである。ケニア人の抜群の走力に対抗するため、他国の人間にできることは何だろう? 答え=ケニアにスクールバスを贈ること。」(p.129)

「カレンジン族の子供は長い距離を走る必要に迫られることが多く、七歳以上の子供は一日平均八キロから十二キロを走るという。」(p.129)

 

シェンク(2012)は遺伝と環境の見方の変化を紹介しています。才能(*)は一部の人びとが所有する「もの」のようなものではなく、「プロセス」だという見方が説明されます。

 

「プロセス」には複数の時間軸がありますが、ここではひとまず個体発生レベルのみ引用しました。

 

「並はずれた成功者とたんなる凡人とのあいだには、埋まることのない、どこまでも深い溝があるという感覚である。自分とは違って、あの人は何かをもっている。あのように生まれついている。生来の才能に恵まれている。/われわれの文化にはこういう仮定が織り込まれている。」(p.74)

 

・「「才能」をオックスフォード英語辞典で引くと「天分。生来の能力」と説明されていて、その出典は『マタイによる福音書』に記された才能についてのたとえ話である。「才能のある」「才能のある状態」という言い方は十七世紀から使われている。現在の定義での「天才」が使われはじめたのは十八世紀のことだ。」(pp.74-75)

*才能(talent)、才能のある(gifted)、才能のある状態(giftedness)、天才(genius)(p.74)

 

文献

シェンク,デイヴィッド 中島由華訳 2012 天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当,早川書房

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