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体系の精神、体系の人(Smith,1759)

アダム・スミスの体系の精神、体系の人について

 

われわれが「秩序」を好むことが語られる。

体系への愛好の一部から引用。

「統治のあらゆる構造は、それらが、それらのもとで生活する人びとの幸福を促進する傾向をもつのに比例してのみ、評価される。このことが、それらのものの唯一の用途であり、目的である。しかしながら、一定の体系の精神から、技術と工夫への一定の愛好から、われわれはときどき、手段を目的よりも高く評価するように思われるし、われわれの同胞被造物の幸福を、かれらが受難あるいは享受しているものごとについての、なにか直接の感覚または感情からよりも、むしろ、一定の美しく秩序ある体系を完成し改良したいという観点から、熱心に促進しようとするように思われる。(pp.26-27)」

 

人間愛と仁愛によって公共精神が促進されている人について:

「その公共精神がまったく人間愛と仁愛によって促進されている人は、既成の諸権力と諸特権を、個々人のものであっても尊重するだろうし国家が分割されている大きな諸階層と諸社会のものであれば、なおさらだろう。・・・かれが人民のなかに根づいている諸偏見を、理性と説得にって征服しえないときは、かれはそれらを力ずくで屈服させようとはこころみない・・・かれは、かれの公共的な諸調整を、できるかぎり、人民の確認された諸慣行と諸偏見に順応させるだろうし、人民が服従したがらない諸規則の欠如から生じうる諸不便を、できるかぎり匡正するだろう。かれは・・・最善の法体系を樹立しえないばあいには、人民が耐えうるかぎりで最善のものを、樹立しようと努力するだろう。」(pp.143-144)

 

一方、体系の人について:

「体系の人は、反対に、自分ではひじょうに賢明なつもりになりがちであり、かれは、自分の理想的な統治計画の、想像上の美しさに魅惑されるため、それのどの部分からの最小の偏差も我慢できないことがしばしばである。かれは、それに反対するだろう大きな利害関係にも強い偏見にも、なんの顧慮もなく、それを完全にしかもそのあらゆる部分について樹立することをつづける。かれは、手がチェス盤のうえのさまざまな駒を配置するのとおなじく容易に、自分がひとつの大きな社会のさまざまな成員を配置できると想像しているように思われる。かれは、チェス盤のうえの駒が、手がそれらにおしつけるもののほかにはなんの運動原理ももたないこと、そして人間社会という大きなチェス盤のなかでは、すべての単一の駒が、立法府がそれにおしつけたいと思うかもしれないものとまったくちがった、それ自身の運動原理をもつということを、まったく考慮しないのである。もしそれらのふたつの原理が、一致し、おなじ方向にはたらくならば、人間社会の競技は、容易に調和的に進行するだろうし、幸福で成功したものである可能性が強いのである。もしそれらが、対立または相違するならば、競技はみじめに進行するであろうし、社会はつねに、最高度の無秩序のなかにあるにちがいない。」(pp.144-145)

 

ただし、上記のとおり、方向性をもたなくてよいわけではない。

「政策と法律の完成についての、ある一般的な、そして体系的でさえある観念が、政治家の諸見解を方向づけるために、疑いなく必要であるだろう。しかし、その観念が要求すると思われうるあらゆるものごとを樹立すること、しかもすべてを一時にあらゆる反対にもかかわらず樹立することを主張するのは、しばしば最高度の傲慢であるにちがいない。それは、かれ自身の判断を、正邪の最高規準としてうちたてることえある。それは、かれ自身が、その公共社会のなかで唯一の賢明で価値ある人間であって、かれの同胞市民たちはかれに順応すべきで、かれがかれらにそうすべきなのではないと、空想することである。・・・この傲慢は、かれらにとっては完全におなじみのものである。かれらは、自分たちの判断のかぎりない至上性について、なんの疑いもいだかない。」(pp.145-146)

 

スミス,A.2003 道徳感情論(下),岩波書店.(岩波文庫

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