・何を「デフォルト」で与えられて経験し、経過のなかで、何を「カスタマイズ」されて/自ら「カスタマイズ」して、獲得してきたのか。(※)
・「カスタマイズ」されたものを、デフォルトとして与えられた場合、何を喪い/何を得るのか、それは旧世代とのあいだでどのような確執をうむか。進むのか、別のかたちでもどるのか。
・それをどのように決めるのか。
一次 ⇔ 二次
デフォルト ⇔ カスタマイズド
混沌 ⇔ 秩序
パブリック ⇔ プライベート
生活世界 ⇔ システム
リアルX ⇔ ヴァーチャルX
計算不可能 ⇔ 計算可能
作る ⇔ 買う
※もちろん、デフォルトは相対的にデフォルトであるにすぎない。二項の境界はあいまいでグラデーションの状態。議論をクリアにするためにくっきりカテゴリ化している。議論のために行ったこの操作を、議論を経て得た結論のもとで解除してみる必要もある。
「西洋の科学的世界観は、問題だらけである。それは文字どおりに問題なのであって、問題が生活の「あり方」そのものになっている。人びとは、自分自身と他者を問題によって見、理解し、問題という言語で語るように社会化される。そして問題には、常にそうなるとは限らないが、解決を伴う。日常言語で質問が可能な答えを含意するように、問題は可能な解決を含意する。問題を特定して答えを導くことは、卓越した科学、良い教育、優れた政府、優秀な外交、そして充足した生活の品質保証となる。問題を発見すべしと教えられ、解決を求めるべしと教えられる。このような見方と考え方は、車を修理したり家を建てる場合にはよいかもしれないが、子どもを育てたり、平和に暮らしたり、貧困をなくすなどの、人間の発達に関連する場合、有効かどうかは疑わしい。いまだに、この問題解決パラダイムは支配的であり、世界を創造し続ける人間の可能性を過剰に方向づけ、大きく制限している。このパラダイムこそが問題なのである。」
(ホルツマン,2014,pp.14-15)