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「する」社会と「観る」社会(神野,2015)

神野(2015)は工業社会と知識社会をつぎのように整理する。

・工業社会:所有欲求を充足し、豊かさを実感 → 「お金」で何をするのかが問われる

・知識社会:存在欲求を充足し、幸福を実感 → 人間の生命で何を「する」のかが問われる

 

これを踏まえて、「する」社会と「観る」社会を説明していく。日本とスウェーデンが対比的に語られる。長いがそのまま引用する。

 

「知識社会に転換する「人間国家」は、「する」社会である。「人間国家」でスポーツを楽しむといえば、スポーツを「する」ことである。知識社会に転換したスウェーデンには、プロスポーツは原則として存在しない。

 逆に日本でスポーツを楽しむといえば、「お金」でスポーツを買うことである。つまり、市場でスポーツを買い、スポーツを観て楽しむ。スウェーデンが「する」社会だとすれば、日本は「観る」社会である。

 音楽も同じである。「人間国家」で音楽を楽しむといえば、ピアノを弾き、バイオリンを奏でることである。もちろん、オペラやクラシックを聴きに行くこともある。しかし、それは演奏者と一体となって音楽と言う芸術を創造することを楽しむことになる。

 工業社会は「観る」社会である。「観る」社会とは、人間が受身の消費者として生活する「観客社会」を意味する。スポーツも音楽も観客として、サービスを市場から購入して楽しむことになる。

 「観客社会」では介護サービスのような人間の生活をサポートするサービスも、受身の消費者としての人間が購入する。介護を受ける高齢者は、定期的に食事を与えられ、汚物をよりされることだけを望んでいるわけではない。そうした機会を通じて交わされえる人間的触れ合いという存在欲求の充足を求めている。

 「人間国家」の「する」社会とは、人間が能動的に生活者として活動する「参加型社会」である。存在欲求を充足する「参加型社会」では、福祉サービスの生産に社会の構成員が参加するという「参加型」民主主義が開花する。「参加型社会」では「生」を「共」にしてきた人びとの触れ合いとともに、食事も汚物処理も提供され、存在欲求が充足されるようになる。

 企業がビジネスを請け負って、定期的に食事を与えたり、汚物を処理したりするサービスを提供するよりも、「生」を「共」にしてきた人びとの協力により、人間的触れ合いとともにサービスを提供するほうが、質の高いサービスを提供できることは明らかである。「人間国家」とは所有欲求を充足する「量と競争の社会」ではなく、存在欲求を充足する「質と協力の社会」なのである。」(pp.206-207)

 

・対比することでクリアに語りすぎているようにみえるかもしれないが、言わんとするところはよく理解できる。

・課題は、上記の議論と、香取(2017)の1章、そして自助・共助・公助の議論の関連を考えること。

・余力があれば、ハンス・ヨナスの未来への責任との関連を考える。

 

文献

神野直彦 2015 「人間国家」への改革―参加保障型の福祉社会をつくる,NHK出版.

香川照幸 2017 教養としての社会保障東洋経済新報社

 

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