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認識と行為の水準(あるいは他者とのかかわり)

■認識とその認識がどのような行為の資源になりうるか、について

 小林秀雄が講演後に学生の質問にたいして回答した部分から引用します(小林,2014;質疑応答自体は昭和45年なので1970年)。

 科学などというものは、物を知るためには、ちっとも役に立っていません。なるほど、月に行くためには、敵を殺すためには、労なくして物を得るためには―そういう諸々の行動をするためには、科学は非常な役割を果たしているでしょう。けれども、人間の生活とはどういう意味合いのものであろうかといった認識については、科学は何もしてくれないのです。

 たとえば、人間にとって水とは何か、どういう意味合いを持っているのだろうかと考える時、この水の意味を知ることと、水を分析してH2Oだと知ることとは全然違うでしょう。それはもちろん、水という自然を僕らがうまく利用し、行動するためには、分析してH2Oだと知らなくてはいけない。しかし水を認識することについては、科学は何の助けにもならない。

 僕が君の性格を知るということは、君という人の〈もののあはれ〉を知ることです。そういう君を認識することです。しかし、僕が生物学者として君を知る時は、君の性格を抜かしてしまって、心臓移植とか何とか、医学の進歩のために君を解剖する。これは君を認識することとはまるで別だろ?(pp.99-100)

 この認識について考えるにあたり、ヴィゴツキーの科学的概念と生活的概念、大森荘蔵の議論も振り返ってみてください。

 また、こうしたことを考える意味については、『不平等を考える』の3部、『「学ぶ、考える、話しあう」討論型世論調査―議論の新しい仕組み』で示されたことが関連していることもわかると思います。

 

■承認と教育・養育と計画化(合理化)について

 並行するような議論を行なうために、まずは、ふたたび小林から引用します(質疑応答自体は昭和36年なので1961年)。

 家庭の教育でも、本末が転倒しているようです。子供に対する外的な影響ばかりを、やかましく言う。テレビの影響だとか、雑誌の影響だとかが、しきりに論じられている。だが、子供が一番深く影響を受けるのは、家庭の精神的、感情的雰囲気というものでしょう。親が本当に子供に深い愛情を持っていれば、子供は直ちにこれに感応して、現実的な態度を取るものです。親の愛情をきちんと受け止める能力を、子供は完全に備えている。当り前のことだが、こんな当り前なことが、存外忘れられているのです。(pp.88-89)

 いまの雰囲気からすると言葉があいまいに見える部分もあるかもしれませんが、言わんとするところは理解できます。そして、当たり前のことはさらに難しくなっているのかもしれません。存在と承認について「現代の文脈」を参照しておきます。鷲田(2010)より。

 ひとの存在価値を業績で測る、何をするにも能力と資格を問題にする、何をするにも効率と成績を問題にする・・・。子ども時代から定年を迎えるまで、ずっとそのチェックが入る。わたしたちはたえず資格を問われる社会に生きている・・・略・・・〔この社会は〕「これができたら」という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせていく。(p.137)

 条件つきでしか自分が認められない社会のなかで、自分が生きつづけられるか、ひとはいつもその不安に苛まれる。その不安を鎮めるために、条件をつけないで自分の存在を肯定してくれるようなひとを求める。自分をこのまま認めてくれるひと、自分の存在を条件つきではなく肯定してくれるひとを求めるようになるのである。・・・略・・・

 いまわたしたちにほんとうに必要なのは、・・・略・・・距離を置いてたがいに肯定しあう、そういう差異を前提とした関係なのだろう。(pp.138-139)

この点、2つの承認の議論(こちら)もヒントになります。ふたたび鷲田から引用します。では、この文脈で、人とのかかわりはどうなっているのか。

 少子化が進み、地域社会の養育力が殺がれてゆくなかで、・・・略・・・思いどおりにならないと焦って、子どもについて過剰な干渉をし、過剰な期待を押しつけるようになる。こんなふうな人間になってもらいたい、そのためにこのような学校に行ってほしい、そのためにはこのようなお稽古ごとや習いごとをしておく必要がある・・・というふうに、子どもをまるで作品のように育てようとする。(p.158)

鷲田は子どもの養育について議論をしているのですが、先の引用箇所を踏まえると、議論の適用範囲はそれにとどまらないことも同時に見えると思います。「しつけ」の前提となる「存在の世話」の大切さも指摘されています(p.152)。

 子どもの養育に議論を限定すれば、レディの議論を補助線とすることで、先の小林の指摘の意図をより厳密にとらえることもできるように思います。他方で、レディの議論をヒントにして、さらに、子どもにとどまらない対象に、議論を進めていく可能性もあるように思います。

 果たして私たちは、誰にとって、どのような存在であることを望むのか。

 

小林秀雄(講演)、国民文化研究会(編) 2014 学生との対話,新潮社.(文庫版もあり)

大森荘蔵 1994 知の構築とその呪縛,筑摩書房.(ちくま学芸文庫

レディ,ヴァスデヴィ 佐伯胖訳 2015 驚くべき乳幼児の心の世界,ミネルヴァ書房

齋藤純一 2017 不平等を考える―政治理論入門,筑摩書房.(ちくま新書

曽根泰教・柳瀬昇・上木原弘修・島田圭介 2013 「学ぶ、考える、話しあう」討論型世論調査―議論の新しい仕組み,木楽舎

ヴィゴツキー,L.柴田義松訳 2001 思考と言語(新訳版),新読書社.

鷲田清一 2010 わかりやすいはわかりにくい?―臨床哲学講座,筑摩書房.(ちくま新書

 

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