マリノフスキーのフィールドワークまで、ヴントの出会いについて、谷口(1987)に依拠してまとめておきます
Bronislaw Malinowski
1902:ヤギエウォ大学に進む
・物理学と数学を専攻
1908:博士の学位を取得
・健康上の理由、『金枝篇』に魅せられたこと等をきっかけに人類学にすすむ
・その後、ライプツィヒ大学のカール・ビュッヘルとヴィルヘルム・ヴントのもとで民族学を学ぶ
・「このころはまだ人類学という言葉を使わないで「フェルカークンデ」(Völkerkunde、諸民族の学)というコトバを使っていました。その後、ヴィルヘルム・ヴントという哲学者・心理学者についた。」(山口,1982,pp.7-8)
1910:イギリスに渡り、ロンドン・スクール・オヴ・エコノミックスでセリグマンやウェスタマークの指導を受ける
・ケンブリッジ大学のハッドンやリヴァース等と親交を結ぶ
1914:オーストラリアに渡る
・第1回:1914年9月~1915年3月 トゥーロン島のマイルー族社会を中心に(30歳)
*日記の第一部は1914年9月~1915年8月まで
・第2回:1915年6月~1916年5月 トロブリアンド諸島
・第3回:1917年10月~1918年10月 トロブリアンド諸島
*日記の第二部は1917年10月~1918年7月まで
谷口佳子 1987 訳者解説 マリノフスキー,B.マリノフスキー日記,平凡社.
山口昌男 1982 文化人類学への招待,岩波書店.(岩波新書)