佐藤・山田(2004)はその5章において、制度的環境に注目する新制度派組織理論の流れを紹介しています。
・この見方において注目されるのは、組織は「制度的要請にしたがって組織の存在と活動の正当性を証明することが要求される」ことです(p.172)。
・つまり、組織には合理性を追求する側面だけではなく、自らの存在と活動を正当化しようとする側面がある、とみます。
・そこで挙げられている例のひとつが、「日本の大学において非常に奇妙な形で定着していった「シラバス(講義要綱集)」」の制度です(p.172)。
「大学教育でいうシラバスというのは、もともと欧米の高等教育機関を中心にして使用されてきたものであり、学生に授業内容の説明資料として配布されるプリント資料を指しています。シラバスは、学期がはじまる前に配布ないし掲示されることもありますが、多くの場合は、それぞれの講義担当者が自分で数枚の資料を作って授業の初日などに出席者に対して配布します。この意味でのシラバスは、以下のような情報を含むかなり詳しいものであることが少なくありません―授業名、科目番号、教室、日時、講師名、研究室の場所と電話番号、講義の目的、スケジュール、成績評価の方法、履修条件、文献情報。そして、このシラバスは、欧米の大学における教育サービスの質を維持・向上させる上で大きな意味を持っているとされています。つまり、欧米の大学におけるシラバスは、大学における教育サービスの品質管理をおこなう上で有力な手段だと言えるのです。」
「欧米の大学にはシラバスとは別の資料として、「コースカタログ」などという名前で呼ばれる、大学でおこなわれる全講義の担当教員名、科目番号、単位数等と各講義の内容の概要をせいぜい五、六行程度で書いたものを集めた冊子があります。これは多くの場合、それこそ電話帳に使うような、あまり上質ではない紙を使って、大学当局がまとめて印刷して、学年や各学期の初めに学生に対して配布します。もっとも紙質は電話帳並みでも、サイズ自体は比較的小ぶり(B5判程度)の冊子ですし、かなり薄手のものであることが少なくありません。」
「つまり、日本の多くの大学で10年ほど前からシラバスと呼ばれているのは、日本でも昔からあった、講義の概要をごく簡単に示したコースカタログ的な比較的薄手の講義要綱集とこの欧米流のシラバスとを折衷した物だと考えることができるのです。また、この日本版「シラバス」の原稿を書く際には、大学当局から、授業スケジュールなどを含めてできるだけ詳細に、つまり、まさに欧米で言うシラバスと同じような内容を盛り込んで書くようにと指示されることが少なくありません。考えてみれば、これはとてもおかしな話です。というのも、要綱集が配布されるのは日本の場合はふつう学年の初めだけですし、それにあわせて大学全体の授業の要綱をまとめて印刷して製本するためには、講義要綱の原稿は、授業のはじまる少なくとも半年、後期(冬学期)の授業に関しては一年近くも前に作らなければならないことになるからです。毎年同じ講義ノートを使って十年一日のような授業をおこなう場合は別として、これでは最新の情報まで盛り込んだ「生きのいい」授業などできるわけはありません。実際、著者の一人がアメリカの大学院で受けたいくつかの授業では、担当教員が授業開始直前まで授業計画を練りに練っていたために、シラバスが授業初日に間に合わないことがありました。」
「それにもかかわらず、この十数年の間には、今日本で見るような形での、電話帳並みの厚さの講義要綱集としてのシラバスの作成・刊行は、国立、公立、私立を問わず、日本の大学における一種の制度として定着してしまいました。」(佐藤・山田,2004,pp.179-181)
・合理的に考えるとおかしいものが、どうして定着したのか、ということが問われます。ここが、新制度派組織理論で現象を斬る醍醐味であるわけですが、それについては各自参照してみてください(シラバスの事例は197から201頁)。
・描かれるのは、”合理的にマネジメントしている組織が生き残り成長を遂げる”姿ではなく、”自分の活動を巧みに正当化している組織が存続している”姿です。
・上記著作が刊行された2004年から時代は流れ、シラバスの不合理はそのまま、昨今は”電話帳”を印刷せずに、ウェブで閲覧できるように時代は変化しています。
・しかし、そこにあるのは”デイリー・ミー的なもの”であり、かつての不便さが内包しえた”雑誌”のような未知との出会いは薄れています。
・ただし、こうしたこともまた、ディプロマ/カリキュラムポリシーに最適化した学びという観点からは、”正当化”されるのかもしれません。
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