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「他者」への想像力

アメリカ研究、文化政策論を専門とする渡辺靖は、ソーシャル・キャピタルの低減と「他者」への想像力について、つぎのようにまとめている。

 ソーシャル・キャピタル社会関係資本)が低減し、「協調」(コミュニティ・ソリューション)が困難になれば、「強制」(ヒエラルキー・ソリューショ ン)ないし「報酬」(マーケット・ソリューション)による問題解決に頼らざるを得なくなり、社会全体のガバナンスコストは増大する。「他者」への想像力の希薄化は監視社会や訴訟社会、厳罰社会を誘引するとともに、かつて思想家アレクシ・ド・トクヴィルが警鐘を鳴らした、付和雷同的な「多数派の専制」を助長しかねない。(渡辺,2015,51)

 

文化人類学を学びはじめた自身の経験をつぎのように表現する。長文ですが、重要な指摘がなされていると思いますので、そのまま引用します。

 私はもともと「文化」に関心があったわけではない。ましてや「人類学」という言葉からしばしば連想される「考古学」や「少数民族」に惹かれていたわけでもない。文化人類学に対する憧れを抱いて米国に大学院留学したのは確 かだが、今振り返れば、それは「恋に恋する」気持ちに近かったように思う。
 大学生になってリベラル・アーツ色の濃い 教育を受け、また日々、色々と思索を重ねるなか、現在の自分(アイデンティティ)を形成している価値観や思考などは、時間的にも空間的にも制約された環境下で育まれた、極めて偶有的で儚いものだという感覚が強くなっていった。誰しも自分がこの世に生まれ落ちる時代や場所を選ぶことはできないが、往々にし て、自分の尺度を絶対視し、異なる時代や場所に当てはめようとする。ある意味、それはやむを得ないことであり、他者認識や世界認識の出発点でもある。とはいえ、自分の尺度を自省する態度を怠れば、その先には独善的な世界が広がるだけだ。自分の価値観や思考を切開し相対化すること―つまり、自分の知的枠組み の限界や不完全さを認識し、たまたま生を受けた時代や場所への驕りを排すること―が不可欠との思いが大きくなっていった。
  一見、それは孤独な作業に見えるが、当時の私には、むしろ精神の自由を意味するように思えたし、いわば自分の小ささを認識することで感じ取れる強さのようなものがあると思えた。そうした作業を一生続けることが出来るのなら、私自身は十分幸せに思えたし、ささやかながらもこの世に生きた意味を見出せるとも思えた。砂漠のなかの一粒の砂にすぎないことを極限まで悟ることから生まれる強さや美しさのようなものがあると思えたのである。(渡辺,2015,150-151)

 

これまでに学んだこととは異なる枠組みでワークショップやソーシャル・キャピタルをとらえるヒントになると思います。

 

文献

渡辺靖 2015 〈文化〉を捉え直す―カルチュラル・セキュリティの発想,岩波書店 (岩波新書

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