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共感呪術

ジェームズ・フレーザー(1994,第三章「共感呪術」)

 

呪術が根ざしている2つのものの考え方

・類似の法則:似たものは似たものを生み出す。結果はその原因に似る

・接触の法則/感染の法則:かつて互いに接触していたものは、物理的な接触がなくなった後も、互いに作用しあう

 

類似の法則

・呪術師は、どんな事象でもそれを真似るだけで思いどおりの結果を生み出すことができる = 類感呪術/模倣呪術

 

接触の法則/感染の法則

・呪術師は、誰かの身体とかつて接触していたものにたいして加えられた行為は、同じ結果をその人物にもたらすと考える  = 感染呪術

 

呪術

・自然の法則にみせかけたもの。未熟な技術、まやかしの科学。

・その原理の本質は観念連想を誤って適用していること

・・類感呪術:類似による観念連想。「類似しているものは同一」と考える誤り

・・感染呪術:連続による観念連想。「かつて接触していたものはいつまでも接触している」と考える誤り。毛髪や爪といった、体の一部だったものとその人のあいだに存在する関係

→実際の施術では、二つが組み合わされていることも多い

 

共感呪術(共感の法則)

類感呪術(類似の法則)

感染呪術(接触の法則)

 

共感の法則:事物は離れていても密かな共感によって作用しあう。密かな共感とはエーテルのようなもの。

 

類感呪術の例:

・敵に似せた像を傷つけたり、破壊する。これにより、敵に危害を加えたり、殺そうとする。藁人形。

・子どもがほしいと願う子に、小さな人形をつくり、儀式をおこなう。

 

感染呪術の例:

・まじないの効果をあげるために、まじないをかける相手の体の一部、衣服の一部、食べ残し、唾、足跡など、なんらかの関係のあるものを使う

 

文献

ジェームズ・フレーザー 内田昭一郎・吉岡晶子訳 1994 図説 金枝篇,東京書籍 

だれも漕いでいない自転車は進み続ける

「意志は能動的な現象であって、受動的な感受性の状態である欲望とは別ものである。そして、もともと欲望から枝がわかれたものであるが、やがて根を生やし、親株からわかれてしまうこともある。だから、習慣的な目的の場合、しばしばわれわれは欲するから意志するのではなく、意志するから欲してしまう。けれどもこれは、習慣の力という周知の事実の一例にすぎず、けして有徳な行為の場合にかぎらない。人々は、何かの動機ではじめたどうでもよい多くのことを、習慣で続けている。」(ミル,1967,p.502)

 

欲望→意志、意志→欲望

・習慣化したこの過程を支えている資源は何か?

 

「また、意識的な決意ではじめても、その決意が習慣化しており、おそらく慎重に考慮した選択に反して、習慣の力で動かされているということもある。これは、悪い、有害な耽溺という習慣に陥った人たちによくあることだ。」(同,p.502)

 

意志が習慣化。(意志→)習慣

・ある程度自転車をこげば、車輪は惰性でまわりつづける

・習慣への過程を支えた資源は何か?意志の代わりをしている資源は何か?

 

〔一部議論を省略したが;引用者注〕「以上のように理解された意志と欲望の区別は、確実できわめて重要な心理的事実である、しかしその事実は、もっぱらこういうことを意味する―意志は、われわれの身体を構成する他のあらゆる部分と同じように、習慣になじみやすいこと、さらに、われわれはもはやそれ自体のために求めなくなったものでも習慣にしたがって意志したり、意志するというだけの理由で欲求したりできること、である。だからといって、意志がはじめはまったく欲望から生まれたものだという真理が、少しでも否定されるわけではない。」(同,p.502)

 

「意志は欲望の子であるが、生みの親の支配からぬけでたとたんに、たちまち習慣の支配をうける。・・・中略・・・徳を促進する快苦の連想の影響力が習慣化するまでは行為の一貫性に十分な信頼性がおけないのであるが、もしそうでなければ、徳が快苦を離れて独立の目的になることを願っても意味がないであろう。感情や行動に確実性を与えるのは習慣だけである。そして、正しい行ないをしようとする意志がこういう習慣的独立性をもつまで開発されるべきであるのは一人の人間の感情や行動に絶対の信頼がおけることが他人にとってたいせつだからであり、自分自身の感情や行動に信頼できることが当人にとってたいせつだからである。」(p.503)

 

習慣を取りまいているあれこれ。慣性の法則(たとえば土倉,2014;2017)

 

ミル,J.S.伊原吉之助訳 1967 功利主義論 関嘉彦編 世界の名著38ベンサム J・S・ミル,中央公論社

時間はたっぷりある

いまの議論において重要なのは、下記引用箇所の太字の箇所。

 

功利主義を擁護する者は、しばしば次のような反対論にこたえることが必要となる。つまり、行為の前に、どんな行動が社会全体の幸福に影響をおよぼすかを計算し考慮している暇はない、という反対論である。これは、なすべきことが起こるたびにいちうち旧約聖書新約聖書を読み直している暇がないから、キリスト教を行為の導きにすることができないという議論とまったく同じである。/この反対論には、時間はたっぷりある、とこたえればよい。人類が生き続けてきた過去の全時間がわれわれに与えられているのである。この全時代を通じて、人類は、いろいろな行為のいろいろな傾向を経験し、習得してきたのである。人生の思慮分別、あらゆる道徳が、このような経験にもとづいている。ところが人々〔反対論者;引用者注〕の話をきいていると、この経験の開始が今まで延期されていたみたいである。他人の財産・生命に危害を加えたくなった瞬間にはじめて人間は、殺人や窃盗が人間の幸福に有害かどうかを考え始めるものときめてかかっているようにきこえる。」(ミル,1967,pp.484-485;太字は引用者)

 

ミルの関心を離れて、私たちが考えるべき問題は、人類が生き続けてきた全時間は、行為においてどのような資源としてあるか、ということ。この点についてミルはヒントを提供している。それは私たちにとって望むこたえだろうか?

 

「道徳問題についてこんな無意味な議論をすることを、人々は本当にやめなければならない、ほかの実際的な問題について、こんな馬鹿げたことを言ったり聞いたりする人はいないではないか。水夫に航海暦を自分で算出する暇がないからといって、航海術が天文学にもとづいていないとはだれも言わない。水夫だって理性的動物なのだから、すでに計算済みの航海暦を携えて航海にでかけるのである。そして、すべての理性的動物は、正邪というふつうの問題について、また、もっとむずかしい思慮分別の問題ならばその多くについて、ちゃんと意見をきめたうえで、人生の航海にのりだすのである。先見が人間の特性であるかぎり、人類はこういうことをつづけるものと思われる。」(同,pp.485-486)

 

惜しい、、関心からずれてしまった。

 

ミル,J.S.伊原吉之助訳 1967 功利主義論 関嘉彦編 世界の名著38ベンサム J・S・ミル,中央公論社

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