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観念運動

観念運動(James, 1892)

「観念運動。―単なる運動の感覚的結果の観念のみで十分な運動的合図になり得るのか、それともある特定の運動が起こるのに先だって、命令、決定、同意、意志的指令、その他類似の意識現象の形式の、これ以外の心的先行条件がなくてはならないのか。これが問題である。

 私の答えはこうである。時としては単なる観念のみで十分であるが、時としては命令、指令、明白な同意の形式の付加的意識的要素が運動との間に介在し、運動に先行しなければならない、命令のない場合の方が簡単な種類であるから、適当なときに十分に説明しなければならない。いまのところは意志過程の型として観念運動(ideo-motor action)と呼ばれてきたもの、すなわち運動のことをただ考えさえすれば、特殊な命令がなくても運動が起こる場合を考えてみよう。

 ある運動が滞りなく即座にその観念に続いて起こる場合は観念運動である。この場合には観念と実行の間には何も意識するものはないもちろんその間にはあらゆる種類の神経筋肉的過程はあるけれども、われわれはこれにまったく気づかない。動作を考えればすでに実行されている。これがこの事柄について内省で知り得るすべてである。私が信ずるところでは、観念運動という名称を初めて用いたカーペンター博士は、私の誤りでなければ、これをわれわれの心的生活の不思議の一つに位置づけている。しかし実際はこれは何の不思議でもなく、偽装を剥がされた正常な過程に過ぎない。話をしている最中に床の上に落ちているピンとか自分の袖についている塵が目につくと、会話を中断することなしに塵を払ったりピンを拾い上げたりする。何も特別の決心をするわけではない。ただ対象の近くと動作についての瞬時の考えとが自ずと動作を引き起こしたように見える。同様に、食後食卓に向かって座っていると、ときどきナッツや干し葡萄を皿から摘んで食べていることがある。食事そのものは済んでいる。そして会話に夢中になっているときには自分が何をしているのか、ほとんど気がついていない。果物の近くとこれを食べてよいという瞬時の考えが、必然的にその動作を起こしているようである。確かにここには何の明白な命令もない。そこにはわれわれが日常四六時中しているような習慣的動作と処置があり、それらは外から入ってくる感覚によって非常に素早く引き起こされるので、有意的動作と言うより、反射と呼ぶべきではないかと迷わせるほどのものである。・・・中略・・・

 これらすべてを通じて、滞りなく抵抗なく動作が継続して起こるための決定条件は、心の中に葛藤する観念がないことのように思われる。・・・中略・・・

 すべての運動表象は、ある程度までその対象である実際の運動を起こし、そして心に同時に存在する反対表象によって妨げられていない場合に最も強くこれを起こす。・・・中略・・・

 有意的動作を理解し、かつ命令もしくは明白な決心がなくてもそれが起こり得ることを理解するための最初の出発点は、意識はその本質において衝動的だという事実である。われわれは最初から感覚や考えをもち、次いで動作を生ずるためにこれに何か動的なものを付加しなければならないのではない。われわれのもつすべての感じは、すでに運動を刺激するべく動きだしている何らかの神経作用に随伴しているものである。われわれの感覚や考えは、その必然的結果が運動である刺激の流れの、また一神経から入って来るや否や他の神経を経て出ていく刺激の流れの、いわば横断面であるに過ぎない。意識は活動の本来の先駆者ではなく、活動は何か意識に付加された「意志力」の結果であるはずだとする一般的な考えは、われわれが非常に長い間ある動作について考えていてもその動作が起こらないことがあるという特殊な場合からなされるごく自然な推論ではある。しかしながらこのような場合は規準ではなく、それは対立する考えによる抑制の場合である。・・・以下略」

(ウィリアム・ジェームズ,1993,『心理学』(下),「観念運動」,pp.268-275)

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