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現代社会史の三つの区分

見田(2006,3章)

「1945年、第二次世界大戦終結から現在に至る日本の現代社会史は、この根底からの変動の時代を軸に、基本的に三つの時代に区分しておくことができる。」

〈プレ高度成長期〉:1945~1960

〈高度成長期〉:1960年代と1973年頃まで

〈ポスト高度成長期〉:1970年代後半以降

 

「現実」という言葉は三つの反対語をもっている

・理想と現実

・夢と現実

・虚構と現実

 

「日本の現代社会史の三つの時期の、時代の心性の基調色を大づかみに特徴づけてみると、ちょうどこの「現実」の三つの反対語によって、それぞれの時代の特質を定着することができると思います。」(p71)

 

理想の時代(1945年~60年頃まで)

・人びとが〈理想〉に生きようとした時代

=人々が理想を求めて生きた時代

・・理想は現実化することを求める

・・日本を支配していた二つの大文字の「理想」

・・・アメリカン・デモクラシーの理想

・・・ソビエトコミュニズムの理想

 

夢の時代(1960年~70年代前半まで)

・人びとが〈夢〉に生きようとした時代

・前半:あたたかい夢の時代

・後半:熱い夢の時代

・・第一期の理想がもたらしたものへの反乱、それらからの解放を求める

 

虚構の時代(1970年代の後半から)

・人びとが〈虚構〉に生きようとした時代

=もはやリアリティを愛さない。

・リアルなもの、ナマなもの、「自然」なものの「脱臭」に向かう、排除の感性圧

・虚構化する力。あえてしている。

 

見田宗介 2006 社会学入門 岩波書店岩波新書

金枝篇

・イタリアはローマ、ネミの村。

・ディアナ神殿の祭司になり、「森の王」の称号を得るには、神殿の森の聖なる樹から一本の枝を折り、それでいまの祭司を殺さなければならない。

1)なぜ祭司を殺さなければならないのか?

2)なぜ聖なる樹の枝を折らなければならないのか?

 

1)なぜ祭司を殺さなければならないのか?

・樹木には豊穣の力が宿る

・祭司は呪術師と王の役割を果たしていた

・・王は好天と豊かな作物をもたすと考えられた

・弱い王、老いた方は自然の運行を守るという本来の役目を果たせなくなる

・・感染の原理により、王の弱さが自然の豊穣を脅かすため

・・王は継承者に王座を明け渡す

・・継承者は王を殺すことで、自分のほうが王としての務めを果たす力があることを示す

=祭司が殺されるのは、植物の死と再生という自然界の秩序を反映しており、自然界を存続させるため。

・人間はわが身を襲った災厄を他のものに転嫁しようとしてきた。その一つとして、身代わりとしての死。

・・豊穣祈願、災厄排除のためのいけにえ

=森の王は、身代わりとしても殺された。

 

2)なぜ聖なる樹の枝を折らなければならないのか?

・ヨーロッパではヤドリギは迷信的崇拝の対象

・・薬効があるとされる

・・とくに寄生対象がオークの場合には神聖。

 

ヤドリギにはオークの生命が宿っている

・・オークの葉が落ちてしまう冬でも、ヤドリギは青々と茂っている

   ↓ つぎのような考え

・・ヤドリギが無事でいるかぎり、オークの樹を傷つけたり、殺すことはできない

・・ヤドリギを引きちぎると、オークは倒れる

 

・森の王=オークの神ユピテルの化身

・金枝=オークの木に寄生し、「森の王」の霊魂が宿っているヤドリギの枝

→オークの樹と同様、ヤドリギが無事であるかぎり、森の王を殺すことはできない。だから、まず枝を折る必要がある。

 

(背景)

・北欧の善と美の神バルデルの神話

・・バルデルは不死身。ただし、ヤドリギでのみ傷つけられる。

・・バルデルを殺せるのはヤドリギだけ。しかも、オークの樹からとられたものでないかぎり、殺せない。

 ・・かつ、バルデルの命はヤドリギに宿っている

 

文献
ジェームズ・フレーザー 内田昭一郎・吉岡晶子訳 1994 図説 金枝篇,東京書籍

相続税についても考える必要

「過去について学ぶ者にとって、古代の王や祭司の生活から教えられることは多い。・・・略・・・その世界観がわれわれの目には未熟で誤っているようにみえるとしても、論理的に一貫性があるという取り柄まで否定するのは不当といえよう。・・・略・・・この掟の体系の欠陥は―それは致命的なものだが―その成り立ちの理由づけにあるのではなく、そもそもの前提にある。・・・略・・・だが、欠陥がすぐにわかるからといってその前提を馬鹿げたものだと指弾するのは、ものの考え方として道理に反するばかりか失礼でもある。われわれの今のものの考え方の基礎は、遠い昔から幾世代もの人々が築き上げてきたものなのだ。とやかくいってもまだそれほど立派な水準には達成ていないが、しかし、ここまでたどりつくのに人間がどれほど苦労し、延々と努力を続けてきたかを、われわれはほとんど実感していない。そうした苦労を重ねてきた名もなき忘れさられてしまった人々にこそ、私たちは感謝を捧げるべきである。彼らがたゆみなくものを考え、意欲的に努力してきたからこそ、今日のわれわれがあるのだ。一つの時代が、そして、いうまでもなく一人の人間が、人類共同の知識の宝庫に加えることのできる新しい知識は微々たるものである。・・・略・・・われわれは財産の相続人のようなものだ。ところが、長い年月をかけて受け継いできたので、その財産を築いた人々のことなど忘れてしまい、その時々の所有者は、その財産をこの世の始まったときから自分の民族が変わることなく所有してきた独自の財産だとみなしてきた。しかし、あらためてよく考え調べてみれば納得がいくように、われわれがおおかた自分のものだ〔と〕自負してきた知識の宝の多くは先人たちのおかげなのである。」

(フレーザー,1994,pp.153-154)

 

文献
ジェームズ・フレーザー 内田昭一郎・吉岡晶子訳 1994 図説 金枝篇,東京書籍

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