tsuchikulab

Tsuchikura Laboratory

モナーカディエンの憂うつ

スウェーデンの基礎学校(日本の小学校と中学校の期間に相当)の4~6年生(日本の小学校4~6年に相当)を対象とした社会家の教科書から(スバネリッド,2016,pp.149-150)。

ある日、あなたは学校で「モナーカディエン」という独裁国家についてのテレビ番組を見ます。あなたの役目は、「モナーカディエン」を、より民主的にするために三つの分野を選ぶことです。

①以下の法律や規則のなかから三つを選び、この国がより民主的になるように、それらを変えてみましょう。あなたがなぜその三つを選んだのか、その理由をはっきりさせておきましょう。

②あなたが行う三つの変更は、どのように人々の生活を変えることになるのかについて説明をしましょう。

[モナーカディエンの法律と規則]

・選挙は10年おきに実施する。

・投票できる政党は一つしかない。

・国は、独裁政党の党首でもある国王によって統治されている。

・国内には監視カメラがたくさんある。

・国内では、他人の電話を盗聴したり、他人のメールやSMSを読むことが認められている。

・国王や独裁政党を批判した者は、重罰を受ける。

・独裁政党の党員のみが外国を旅行する特権が得られる。

・選挙において党員は10票、その他の者は1票の投票権がある。

・独裁政党は、インターネット上で何が書かれているかを監視している。

・あらゆるデモは禁止されている。

 

訳者あとがきで訳者は、スウェーデンの教科書では取り上げられたり、説明されたりするものの、日本では教えられていないことがいくつもあることに言及する。 (ほかに何が取り上げられているのか、テキストを参照してみてください。)

 

その理由をつぎのようにまとめる。

「なぜ日本では、こうしたことが教えられないのでしょうか。・・・略・・・それはやはり、子どもを大人とは違うもの、保護すべき対象と見なしているからだと思います。/もちろん、スウェーデンでも子どもは保護されるべき対象なのですが、日本では「現実的なもの、望ましくないものにはなるべく触れさせない」ということが保護であるのに対して、スウェーデンではそういったことを直視させながら、自分で自分の身を守る方法を身に着けさせることに主眼が置かれているように思います。その根底にあるのは、子どもを大人と同じ一つの人格として信頼しているという姿勢です。」(鈴木,2016,p.188)

 

スウェーデンでは小さなころから一人前に扱われること、社会の一員として、主権者として、政治に参加することが当然のごとく認められています。これに対して日本では、大人であっても政治への参加は特別なことであると見なされがちです。」(鈴木,2016,p.189)

 

「多くの日本人にとって政治とは、どこかで誰かが勝手にやっているもの、そして法律は、誰かエラい人が勝手につくっているものなのです。不満があれば文句を言うし、スキャンダルを起こした政治家にはとことん厳しいのですが、その政治家を選んだのは自分たちであり、責任の一端は自分にもあるといった当事者意識がほとんど感じられません。」(鈴木,2016,p.192)

 

実践共同体というパースペクティブは(単なる徒弟制賛美ではなく)、こうした議論を射程に入れられるものです。

 

スバネリッド,ヨーラン 鈴木賢志訳 2016 スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む―日本の大学生は何を感じたのか,新評論.

鈴木賢志 2016 訳者あとがき(上記の訳本の),新評論.

YNU集中講義(補足)

2019/02/13

 

これからやること

・インタビューをおこなう

・・依頼書・同意書、チェックリストをDL・印刷して実施

・音声を書き起こして、トランスクリプトをアップする( 23日まで)

 

26日の授業について

・教室に注意:1-416だそうです(2/25追記)

・もちもの:

・・レジュメ(配付資料01と02)

・・音声ファイル(USBで持参する)

・・同意書

・・ノートPC

・・トランスクリプト(全員)のファイル

・・トランスクリプトの印刷物 + のり、ハサミ、セロテープ(ただし、チームでノートPCが複数ある場合はこれらは不要)

「する」社会と「観る」社会(神野,2015)

神野(2015)は工業社会と知識社会をつぎのように整理する。

・工業社会:所有欲求を充足し、豊かさを実感 → 「お金」で何をするのかが問われる

・知識社会:存在欲求を充足し、幸福を実感 → 人間の生命で何を「する」のかが問われる

 

これを踏まえて、「する」社会と「観る」社会を説明していく。日本とスウェーデンが対比的に語られる。長いがそのまま引用する。

 

「知識社会に転換する「人間国家」は、「する」社会である。「人間国家」でスポーツを楽しむといえば、スポーツを「する」ことである。知識社会に転換したスウェーデンには、プロスポーツは原則として存在しない。

 逆に日本でスポーツを楽しむといえば、「お金」でスポーツを買うことである。つまり、市場でスポーツを買い、スポーツを観て楽しむ。スウェーデンが「する」社会だとすれば、日本は「観る」社会である。

 音楽も同じである。「人間国家」で音楽を楽しむといえば、ピアノを弾き、バイオリンを奏でることである。もちろん、オペラやクラシックを聴きに行くこともある。しかし、それは演奏者と一体となって音楽と言う芸術を創造することを楽しむことになる。

 工業社会は「観る」社会である。「観る」社会とは、人間が受身の消費者として生活する「観客社会」を意味する。スポーツも音楽も観客として、サービスを市場から購入して楽しむことになる。

 「観客社会」では介護サービスのような人間の生活をサポートするサービスも、受身の消費者としての人間が購入する。介護を受ける高齢者は、定期的に食事を与えられ、汚物をよりされることだけを望んでいるわけではない。そうした機会を通じて交わされえる人間的触れ合いという存在欲求の充足を求めている。

 「人間国家」の「する」社会とは、人間が能動的に生活者として活動する「参加型社会」である。存在欲求を充足する「参加型社会」では、福祉サービスの生産に社会の構成員が参加するという「参加型」民主主義が開花する。「参加型社会」では「生」を「共」にしてきた人びとの触れ合いとともに、食事も汚物処理も提供され、存在欲求が充足されるようになる。

 企業がビジネスを請け負って、定期的に食事を与えたり、汚物を処理したりするサービスを提供するよりも、「生」を「共」にしてきた人びとの協力により、人間的触れ合いとともにサービスを提供するほうが、質の高いサービスを提供できることは明らかである。「人間国家」とは所有欲求を充足する「量と競争の社会」ではなく、存在欲求を充足する「質と協力の社会」なのである。」(pp.206-207)

 

・対比することでクリアに語りすぎているようにみえるかもしれないが、言わんとするところはよく理解できる。

・課題は、上記の議論と、香取(2017)の1章、そして自助・共助・公助の議論の関連を考えること。

・余力があれば、ハンス・ヨナスの未来への責任との関連を考える。

 

文献

神野直彦 2015 「人間国家」への改革―参加保障型の福祉社会をつくる,NHK出版.

香川照幸 2017 教養としての社会保障東洋経済新報社

 

tsuchilab.hatenablog.com

Copyright©2013- tsuchikulab All Rights Reserved.