ミルは「幸福」と「満足」を区別する
・不完全さを感じる能力:不完全さを意識しない人間⇔いつも不完全さを意識する人間
・・前者は善を感じる能力がない
「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は両方の側を知っている。
反論する者は、高級な快楽の感受能力をもつ人の多くが、ときどき誘惑に負けてそれらを捨て、低級な快楽に走るではないかと言うかもしれない。だがこのことは、高級な快楽が本質的にすぐれていることを全面的に承認することと少しも矛盾しない。人間はともすれば、性格の弱さから、価値が低いとわかっていながら手近の善を選ぶことがある。このことは、肉体の快楽と精神の快楽とのあいだで起こるだけでなく、二つの肉体的快楽を選択するときにも起こってくる。たとえば、人間は肉欲にふけって健康を損なうことがある。健康がより大きい善であることを重々承知のうえで、である。」(ミル,1967,pp.470-471)
ただし、感受能力をもち、維持するには条件がある
・感じ続けるのがむずかしい状況に置かれれば、感じることができなくなる
「彼らが劣等な快楽に身をゆだねるのは、熟考の末ではなく、それしか知らず、それしか味わったことがないからにすぎない。両等級の快楽を等しく感知できる能力をもちづつけた人が、承知のうえで平然と低級な快楽を選んだことがこれまであるかどうかは疑わしい。もっとも、多くの人が、いつの世にも、両等級の快楽を同時に実現しようとして失敗しているのであるが。」(同,p.471)
(補足)
豚は、かつてエピクロス派が侮蔑的になぞらえられた動物
「功利主義的著作者たちが一般に、精神的な快楽を肉体的な快楽以上に尊重したのは、主として永続性、安全性、低費用性などの点―つまり、内的本性よりも外的利点―で精神的な快楽のほうがすぐれているからであったことは認めなければならない。」(p468)
ミルはこれとは異なる説明をする。両方を経験した人の評価。