「ひとは変われるのか」という問題について、存在論のレベルと認識論のレベルをわけて考えてみます。
・存在論のレベルでは、差異を言語化できればよい(※)。言語化する人が存在しなければならない。
・・ただし、その差異を、行為のレベルでも差異とみなしてよいか、また、生態学的にみて差異とみなしてよいかは別途判断する必要がある。
・・研究者とそうでない人では価値のみとめかたが大きく異なる可能性。
・認識論のレベルでは、構え(変われる/変われない)次第で、存在論のどのようなレベルの差異も利用することができる。
・・つまり、導きたい結論に応じて、都合のよいものさしをピックアップできてしまう。
・・「差異があるかどうか」(変われるかどうか)は問題にならない。導きたい結論はなにか、が問題になっている。
※「それは認識論ではないのか」とおもわれるかもしれません。そうおもわれる場合は、検出のレベルと応用のレベル、あるいは、普遍志向のレベルと具体志向のレベル、というほうが理解しやすいかもしれません。