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その心とは別のかたちで

・ある学びの経路(たとえば、メジャーな心理学の前提となっている間接知覚論、視覚の脳科学認知科学の古典的計算主義、旧来の心の哲学など)を経たうえで、人の心について考えようとすると、「デカルトの劇場(Cartesian theater)」が気になってしまう。

・ところが、それらを前提に考えると、隘路にはまってしまう。(*)

・それではどこから考えるのか。人を前提に考えない。たとえば、手がかりになりそうなものとして、ドゥ・ヴァール(2017)、チャモヴィッツ(2017)。そのほか、当然ながらギブソンの各種著作。動植物種とその生態環境を包括的に理解することで見いだされる有能さ(知能)。

・機能の分化と再複合化、調整弁の複雑化。たとえば、参考になりそうなものとして、ブライテンベルク(1987)、ホルト(2000)。

・生得的・遺伝的な側面から語るのではなく、社会文化的な見方から考える。ただし、「歴史による媒介」を静的にとらえてしまうと、上記で指摘したのとは別の隘路にはまってしまう。また、実践に解決を求める行きかたもとらない。当然ながら、参考になるのはヴィゴツキー

・「歴史」を大文字でとらえない。あくまで個々の文化的道具と社会環境に焦点をあてる。参考になるのはワーチ(2002)。そのほか、ノーマン。そして、フランク(1995),スティール(2012)など。

・社会的認知におけるシステム1とシステム2であれ、ある部分では、社会文化的な視点からとらえる。あえて。

 

(*)

・先人の多くは、その(*)一部を「心」として誤って切り出してしまった。実体化してしまった。それを表象ととらえるのではないし、人(システム)が操作する対象のようにアプローチするのではない。それは、ある種の運動のあとにかろうじて残された軌跡でしかないのではないか。その軌跡にはある種の法則性は見いだされるが、それを拾い集めても運動の姿には辿りつけない。

・別の切り出し方をする方が問題の解消(実際の姿)に近づくのではないだろうか?

 

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